”ぶらいおん”の徒然モノローグ-2

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  No.63<”ぶらいおん”の徒然モノローグ-2>


 “コラムの公開が遅れている。”


  今日は28日だ。時間は午前10時を回っている。


 そして今、この原稿を書き始めているのだから、尋常では無い。このコラムのルーティンからすれば、8の日の8時にはこのコラムが公開されることになっているからだ。


 それで、今日は例外となる。兎に角、28日の24時以前の公開だけは何としても守って行こう。


 ”何で?こんな次第となったか?”


  分析してみると、多分、主原因は老化による処理能力の低下と、この暑さと湿気の故であろう。それらが、筆者の意に反して足を引っ張るのだ。


 それはそうとして、いつの世でも案外、似たり寄ったりの現象なのかも知れぬが、現在の、この世の中の混迷、堕落ぶりは呆れ果てるほどだ。

 それは我が国を初めとはするものの、同様に世界中で観られる現象だ。


 ”人類の進化とは…?”


 そうなって来ると「果たして、人間って、本当に進化してきたのだろうか?」という疑問も湧いてくる。


 それは“進化”の定義にもよるだろうが、その判断はなかなかに難しい。


 この間、長生きで活躍している人として知られた日野原重明という人が亡くなった。享年105歳とのことで、昨年11月に亡くなった筆者の母と同年であった。


 今の日本では、大体この位が寿命として限界なのかも知れない。


 筆者が、そこまで行くという何の保証も無いし、また、そうありたい、という殊更強い願望があるわけでも無い。


 しかし、こんな考え方や感じ方は、案外、近い将来、たとえば20年くらいの間に変わってしまうかも知れない。


 ”ホモサピエンスは間もなく、このまま滅びるか?あるいは、更に別の進化を遂げるか?”


  「ヒト」が、これまで進化してきた「ヒト」であるが故に、肉体的老化は、これ以上「如何ともし難い」であろう。ただ、生体を構成する筋肉や脂肪や、皮膚、体毛などを合成物質によって置き換えてしまえば、その心配は無くなり、運動能力なども、これまでのように「老化」によって衰えるのを回避することが出来るようになるであろうし、その種の合成材料であれば、必要により、何度でも交換可能となるに違いない。


 となれば、後は専ら「脳」に関する問題だけ、ということになろうが、これも恐らく、人工知能の画期的進歩に伴って、「ヒト」の脳に蓄積されたデータを人工知能にコピーするなど容易いことだろうし、第一、人工知能がこのまま発展して行けば、「ヒト」の、つまらないデータや情報など最早、人工知能には必要では無くなっているかも知れないのだ。


 このように、考えて行くと、今、様々の人々から危惧されている「人工知能の暴走」まで行かなくても、その手前でも、最早「人の脳」の価値など殆ど無くなっているかも知れない。


 結局、45億年の地球の歴史の中で、現在まで最高の知性を持つまでに進化してきたホモサピエンスの存在価値は、ここまでであって、いわゆるSingularityを超えた時点では、「ヒト」そのものは、全く無用の存在、という結果になるのかも知れない。


 効率を考えるテクノロジーの見地からすれば、ヒトの肉体や、脳に基づく能力をも凌駕する代替物が存在するなら、容易に劣化するヒトの肉体や脳などの存在は、むしろ鬱陶しい限り、ということになるのかも知れない。


 これは、人類進化の究極の成果なのかも知れないし、あるいは単に、人類の滅亡現象ということなのかも知れない。


 つまり、近付きつゝある、といわれる第六の大絶滅とは関係なく、ホモサピエンスという種は、ここで絶滅し、アンドロイドやヒューマノイドと呼ばれる新しい、進化した(?)種が出現する、ということになるのか。


 そうして、何時まで行っても、老化もしないし、賢くなるばかりの脳を有するヒューマノイドが世の中を支配することになるのだろう。


 それは、ヒトのように死ぬことは無いのだから、「死」というものを意識したり、考えたりすることが中心の宗教や哲学、あるいは医学のような学問も無用の長物となるであろうことは目に見えている。


 そうなると、今のように「ヒト」が考えたり、悩んだりしている苦悩や、悲しみ、喜びの感情や感性といったものは、どうなってしまうのであろうか?


 テクノロジーの進展ということに的を絞れば、矢張り、それらは不必要と、考えられるのではあるまいか。


 となれば、芸術も存在しなくなるのか?文化や文明、といったようなものも同様か?


 しかし、どうだろう?少なくとも、今の人類は、そうしたものまで完全に無くしてしまうことを本当に望んでいるのだろうか?


 それは私には、よく分からない。


 そうしたことが真剣に論じられる頃、私は最早此の世から消滅して居るであろうから…。


 ”そこに拡がるのは、究極の理想世界か?はたまた、何処まで行っても無機質、無感情の世界か?”


  身体の衰えも感じず、脳活動の低下もあり得ない状態で、果たしてヒューマノイドは、当面のタスク以外に、何か考えたり、感じたりすることがあるのだろうか?


 それは、無いであろう。


 だって、空腹になる心配は無いだろうし、愛しい人と燃え上がって、愛の結晶を生み出そうともしないだろうし、ただ目的達成のために最も効率的で、エネルギーロスの少ない方法を見つけるべく、ひたすら計算し、検討し、正解を導き出すために動作するだろうから…。


 そこには、今の世の中のような、危機感も、争いも、悩みも、悲しみも、怒りも、ありとあらゆる、その種の無用な夾雑物の存在する余地は無いのかも知れない。


 この矛盾に満ちみちた現世からすれば、それは究極の理想の世界なのかも知れない。


 そこには、砂漠のような、無機質の世界が、果てしなく無感動に拡がっているのか?


 ちょっと覗いてみたい、気もするが、今の私の年齢では、到底叶うまい。


 いや、待てよ。


 案外、別な形で、それはあっさり叶えられるかも知れない。


 105歳までは行かないであろうが、何年か後に幽明境を異にすれば、次元の異なる、その世界が目の前に拡がっているやも知れぬ。


 生きるも、死ぬも、いずれにしろ、思いのほか「楽しみ」と言えるような気もする。


 こうして今日が終わり、多分、明日が始まる。


 その中で、筆者としては、受け入れられる部分は「老い」を受け入れ、飽くまで受け入れたくない部分については、あらゆる手段を講じて抵抗し、「生涯現役」を貫いて喜ばしい人生を全うすることにしよう。


 何と言っても、それは筆者が決めた「生き方」なのだから…。


 (さあ、これで28日のコラムが完成した。よかった!これで、継続の記録は保たれることになった。)


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この記事へのコメント

福田功司
2017年07月29日 14:08
初めて徒然草(連れずれ草としか変換できませんでした)を読ませていただきました。なんかSFの世界ですね。昔SF小説に熱中した時代を思い出します。


ぶらいおん
2017年08月16日 13:01
福田さん

(こんな場所で、ご免なさい。先ずパソコン教室講師として)「徒然草」が適切に変換できなかったとしたら、パソコンに「学習」させて下さい。

ワードか?どんなエディターを使われたか、分かりませんが、どんなものでも、自動的に「学習」する設定にして置いて下さい。無論、自分で「単語登録」して行っても自分の辞書の語彙を増やすことが出来ます。

さて、今、私が最も関心を持っていることの一つは「人工知能(AI)」です。

AIの進化は目覚ましく、後30年もすれば、今では想像も出来ないことが現実となるであろうことを確信しています。

もう少し、遅く生まれれば間に合ったかも知れませんが、私にはちょっと時間が足りなそうですね。

それでも、多分、可成り面白いところまで到達するでしょう。

いずれ、人は高齢となったら、今までのように「死ぬ」か、それとも「死なないで、生き続ける」か?を選択しなければならなくなるでしょう。

そうなると、それもまた、きっと悩みの種となることでしょうね。


>福田功司さん
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>初めて徒然草(連れずれ草としか変換できませんでした)を読ませていただきました。なんかSFの世界ですね。昔SF小説に熱中した時代を思い出します。
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